MOMENT スキーヤーとカメラマンのストーリー Vol.3(児玉毅×菅沼浩 氏)

MOMENT スキーヤーとカメラマンのストーリー Vol.3(児玉毅×菅沼浩 氏)

スキーヤー児玉毅がこれまでのキャリアを通してカメラマンとのストーリーを振り返るMOMENT. ライディングフォトの裏側やカメラマンとのそれぞれの逸話を綴っている。今回でVol.3となり、カメラマン菅沼浩 氏とのエピソードをご紹介。どうぞお愉しみください。

-MOMENT スキーヤーとカメラマンのストーリー Vol.3-

Text/ Takeshi Kodama

 

先日、断捨離を兼ねて書棚を整理していた時に、今まで自分が掲載されたスキー専門誌の記事のスクラップをまとめたファイルを見つけた。

初めてスキー専門誌に取り上げてもらったのは、まだ大学に在学中の1997年。

これをスタート地点とするならば、撮影し原稿を書く仕事を26年間も続けてきたことになる。

懐かしさのあまり、作業の手を止めて読み耽っていると、特に鮮明に蘇ってきたのは、カメラマンとの濃厚な撮影の時間だった。

今まで、様々なカメラマンの方に撮影していただいたが、中でも撮影機会が多く、影響を受けたカメラマンとのエピソードを写真を見ながら振り返ってみたいと思う。

 

MOMENT 

スキーヤーとカメラマンのストーリー

①亀田則道 ②渡辺正和 ③菅沼浩 ④佐藤圭

 

時は2000年、アメリカはソルトレイクシティでのこと。

俺たちは、撮影クルーというよりは、怪しい密入国者のような風体であった。

アメリカに少しでも長く滞在してスキー修行をするため、極限まで切り詰めた生活は酷いものだった。

そんな中に一人のベテランカメラマンの姿があった。

菅沼浩カメラマン。

彼は、汚い安宿に雑魚寝でも、安い食材をかき集めて作った粗末な食事でも全く気にせず、同じノリで生活していた。

「すみません。こんな生活に付き合ってもらって」そう言うと、菅沼さんは大きな笑顔で切り返した。

「こういうのが楽しいんだよ。これで俺だけ良いホテルに泊まっていたら、全然楽しくないだろ(笑)」

菅沼さんはすでにスキー業界を代表する売れっ子カメラマンで、スキーの神様と言われていたステンマルクの撮影も担当していた。

黙っていてもギャラの良いメーカー広告や、雑誌の表紙や巻頭ギャラリーの仕事が山ほど入ってくる人なのだが

あろうことか自分から進んで北米でスキーバムしていた無名のスキーヤーを撮りに来てくれたのだ。

 菅沼さんは、渡辺正和さん(vol.2で紹介)と同年代の友人だが、まったく違うタイプのカメラマンだ。

正和さんの現場(雪山)は作品を創出するスタジオのようで、スキーヤーは正和さんの世界に入っていく感じだった。

菅沼さんの場合は、スキーヤーやサーファーのライフスタイルを共に楽しむ中で巡り合う奇跡の一瞬を収める。そんなスタンスだ。

だからこそ、撮影前後の旅や、人との関わり合いを何よりも大切にしていた。

 菅沼さんの魅力は、まずそのキャラクターなのだが、俺はやっぱり一番は「現場の楽しさ」だと思っている。

「竹を割ったような性格」という表現がここまでしっくりくる人も珍しく、その性格が撮影現場の雰囲気にも、作風にも滲み出ている。

菅沼さんは俺にとって偉大なカメラマンであり、面倒見の良い先輩であり、気が合う友人であり、たくさんの旅を共にしてきた。

そして、その信頼関係が、撮影にも生かされていった。

命を預けても良いと思う人とでなければ、本当の勝負はできない。

だから、いつもにこやかな菅沼さんも、お互いの信頼関係が崩れるようなことや、危険につながる判断ミスなどには物凄く厳しいのだ。

 そんな撮影を重ねながら、俺は「阿吽の呼吸」という言葉の本当の意味を知るようになった。

菅沼さんと撮影していると、不思議な感覚を覚えることがある。

五感を共有している感覚とでも言おうか。

例えば、菅沼さんがファインダーから見ている景色が俺にも見えて、俺が滑りながら見ている景色が菅沼さんにも見えているような

だから、菅沼さんと撮影する時、細かい打ち合わせをしないことが多い。

また、極めて集中した状態で滑っていると、いつシャッターが切られているのかが伝わってくることがある。

ーー菅沼さんはきっと「これ」を狙っている

ーータケはきっと「ここ」に入ってくる

力強いものが点と点でぶつかった時、菅沼さんが「グレイトショット」と呼ぶ、唯一無二の傑作が生み出されるのだ。

一朝一夕で築ける関係ではない。

スキー写真というものを、ここまで追究させてくれたことを、俺は心から感謝していた。

 

202211月のある日、俺は菅沼さんの地元を尋ねて、神奈川県の葉山に来ていた。

「旨いコロッケバーガーがあるんだけど、食ってみる?」悪戯っぽい笑みを浮かべて菅沼さんが言った。

ローカルスーパーでパン、肉屋でコロッケとトンカツソースを購入し、その場で挟んでスーパーの駐車場の隅で立ち食い。まるで地元の中学生だ(笑)

ーー菅沼さんはずっと変わらなくてサイコーだ

初めて会ったとき、今の俺よりずっと若かった菅沼さんも、65の歳を迎えていた。

菅沼さんはここ数年、毎年のように健康上の問題が生じ、入院や手術を繰り返していた。

そのたびに「今度こそ、現場復帰は難しいのでは?」と思うのだけれど、必ず謎の回復を遂げて笑顔で雪上に戻ってきた。

そんな状況にめげるどころか、車をキャンピングカーに乗り換え、撮影意欲をメラメラと燃やしているではないか。

この時も、雪不足で中止になってしまったけれど、「立山行くぞ!」といち早く集合をかけたのは、菅沼さんだった。

 4年前、菅沼さんはこれまでの傑作を「SHAPE OF SNOW」という自身初の写真集にまとめた。

菅沼さんのキャリアを考えると、何冊も写真集を出版していないことが意外だった。

「正直言うと、現場に立っている時間が楽し過ぎてさ。自分の作品をどうまとめるかよりも、次の撮影を考えてワクワクする方に気持ちが行っちゃうんだよな~」

写真集にまとめたのは、菅沼さんの意志よりも、周りが放っておかなかったという経緯だった。

撮ることが仕事であり、趣味であり、生き方そのものであり、現場に立ち続けることを何よりも大切にしているのだ。

生き方として器用とは言えないけれど、なんと清々しいオヤジだろうか。

「今シーズンもよろしくな」目がなくなるくらいの笑顔を浮かべた菅沼さんとギュッと力のこもった握手を交わすと、またしてもワクワクしている自分に気付くのだった。


 

アルパインらしい雪の表情と、11月ならではの長い影を生かしたワンショット。影を入れた絶妙の構図がさすがの一言。

2012年11月 立山にて

極寒のバックカントリーで震えながら4時間以上天気待ちして、日没直前に一瞬だけ晴れ間が出て報われた奇跡の一枚。

2011年1月 余市岳にて

毎年のようにアラスカに通っていた時期、スキーヤーもカメラマンも毎日が未知との遭遇だった。

2003年3月 アラスカ バルディーズにて

菅沼さんに「あそこ飛べそう?」と聞かれたら、「もちろん行けます」と答えて、思いっきり飛んでいた。

2004年2月 アメリカ ユタ州 スノーバードにて

厳冬期にしかない雪山の美しさに魅了され、どんなに寒い思いをしたって、来る日も来る日も山に向かった。

2015年1月 赤井川村にて

雪の粒子ひとつひとつが感じられ、スキーヤーの息遣いが聞こえてきそうな、臨場感たっぷりの写真も菅沼カメラマンの真骨頂だ。

2017年1月 小樽にて

 

Photo/ Hiroshi Suganuma 

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