MOMENT  スキーヤーとカメラマンのストーリー Vol.2(児玉毅×渡辺正和氏)

MOMENT スキーヤーとカメラマンのストーリー Vol.2(児玉毅×渡辺正和氏)

私たちが感動や興奮、憧れを抱くスキーヤーのライディングフォトは、滑り手と撮り手の一体感による奇跡的なひととき(MOMENT)があって誕生する。第2回は渡辺正和カメラマンとのストーリーです。

-MOMENT スキーヤーとカメラマンのストーリー Vol.2-

Text/ Takeshi Kodama

 

先日、断捨離を兼ねて書棚を整理していた時に、

今まで自分が掲載されたスキー専門誌の記事のスクラップをまとめたファイルを見つけた。

初めてスキー専門誌に取り上げてもらったのは、まだ大学に在学中の1997年。

これをスタート地点とするならば、撮影し原稿を書く仕事を26年間も続けてきたことになる。

懐かしさのあまり、作業の手を止めて読み耽っていると、

特に鮮明に蘇ってきたのは、カメラマンとの濃厚な撮影の時間だった。

今まで、様々なカメラマンの方に撮影していただいたが、

中でも撮影機会が多く、影響を受けたカメラマンとのエピソードを

写真を見ながら振り返ってみたいと思う。

 

MOMENT 

スキーヤーとカメラマンのストーリー

①亀田則道 ②渡辺正和 ③菅沼浩 ④佐藤圭

 

初めて立山に滑りに行ったのは、今から20年前。

200211月上旬のことだった。

あるカメラマンに誘われて、はるばる北海道からやってきたのだ。

カメラマンの名は渡辺正和さん。

海和俊宏さんをはじめ、一流スキーヤーを被写体とした数々の傑作を世に送り出し、様々なスポーツ写真のカメラマンとしても第一線で活躍している。

他のカメラマンのことを滅多に褒めない亀田さんや菅沼さんが、「あいつは凄い」と手放しで褒める存在だ。

スキーカメラマンというのは、アーティスト特有の気難しさと、山男的な厳しさを兼ね備えているイメージがあった。

中でも巨匠と呼ばれるカメラマンであるから、きっと怖い人に違いない。

俺は勝手に渡辺正和さんの像を作り上げ、大いに緊張していたのだが

「タケさん、今回はわざわざありがとうね~。あははは」

腰の低さ、物腰の柔らかさ、人懐っこい笑顔目の前にいるのは、稀に見る「いい人」だった。

癒し系のキャラクターと作品のイメージが全く一致しなかった。

一体どんな撮影をするのだろうか

 

快晴が広がった撮影初日、雷鳥荘周辺で撮影をしながら、俺は大いに戸惑っていた。

「タケさん、同じラインでもう一本行ってみようか」

正和さんはニコニコ笑顔で言った。

はい!」

ーーもうこれで3本目だけど

ニコニコしながらも、全くの妥協を許さない姿勢は理解できたが、一体全体、どんな写真を撮ろうとしているのか分からなかったのだ。

亀田カメラマンや菅沼カメラマンのように、最高の時は「オッケーーー!!」と叫び、ダメな時は「バカヤローーー!!」と叫ぶ、あのメリハリもない。

しかし、パウダー斜面を正和さんのところまで滑りきり、

再び登る準備をしていると、正和さんは独り言のようにブツブツと写真のイメージについて話してくれた。

「タケさんがこれから登っていく間に、少しだけ斜光が稜線の内側に入ってくるから、ちょうどその境目を縫うように滑ってみて。この角度から撮ると雪の風紋が浮き彫りになって、雪煙が光るから。風が少し吹くと、なおいいね」

正和さんはファインダーを覗き込みながら、楽しそうな口調で言った。

「ここをやったら、次はほら、あっちの斜面。あと20分くらいで光が入り始めるから」

光と影と雪の表情を読む能力。その能力をもって風景とスキーヤーとが織りなした奇跡の一瞬をどのような構図で切り取るのだろうか。その発想が不気味なくらい底無しに感じられた。

俺は、ただこの人のことを信じて撮影していれば間違いないんだ。

常に雪の上にいて滑ってきた自分だけど、こんなにも多様な光があり、雪に表情があり、全ての雪が違う色をしているということを知ったのはこの時が初めてだった。

 

こうして、正和さんは疲れた様子も見せず、一日中貪るように写真を撮り続け、夕日が沈んで行った。

「お疲れ様でした」と声をかけようと思ったのだが、正和さんは未だファインダーを覗き込みながら、ぼそっと呟いた。

「夕日の色合いが消えてから、雪山が明るく浮かび上がる一瞬があるんだよ。今日はなんか来そうな気が

ーーこの人は写真のモンスターだ

俺は、正和さんの創作意欲に、ただただ圧倒されながら、薄暗くなった斜面を何度も登り返して滑った。

振り返ると、正和さんが言った通り山々がフワッと明るく浮かび上がっていた。

 

当時、ポジフィルムで撮影していたので、その場で写真をチェックすることはできず、写真データを気軽に送ってチェックする時代でもなかったので、写真を初めて目にしたのは、スキージャーナルの色校が自宅に郵送されて来た時だった。

「うおおおおお!」

俺は、色校をめくりながら、手が震え、胸が熱くなるのを感じていた。紙面に広がっていたのは、肉眼で見たよりも美しい世界だったのだ。

そして、ひとつのカットとしてイメージ通りの写真はなく、想像を大きく超える作品だった。

この時の写真はスキージャーナルの表紙(俺自身初めての表紙写真)となり、巻頭に贅沢なギャラリーが組まれ、一般スキーヤーやカメラマンに自分の名前を知ってもらうきっかけとなった。

「スキージャーナルの立山企画みたよ。本当に素晴らしい写真と文章だったよ」

三浦雄一郎先生に面と向かって言っていただいたときは、プロスキーヤーを志して本当に良かったと心から思った。芸術作品として撮影することの意義を知り、

それがジャーナリズムによって人の心に届くことの意義を知った。

1枚の写真が、人の心から一生離れないほどの影響力を持つことがあるのだ。

 

渡辺正和さんが撮影中の不慮の事故で亡くなってから、11年の歳月が経った。目を閉じると、今も正和さんの笑顔と無我夢中でシャッターを切る姿が蘇ってくる。

正和さんからもらったスキー写真に対する情熱は、多くのスキーヤーやカメラマンに影響を与え、当然、俺の中にも生き続けている。

 

 

 当時、11月上旬には十分な積雪があり、撮影天国だったが、バックカントリースキーが流行る前でほとんど滞在している人がいなかった。

 

 

切り取り方ひとつで山の大きさや厳しさが強調され、緊張感のある写真になる。1カットとして、なんとなく撮影することはないのが正和さんだった。

 

今のように1枚撮って露出をチェックなどできなかったし、気軽に色調整やトリミングという時代ではなかった。だからこそ、1枚にかける集中力は並大抵ではなかった。

 

 光と影と雪の表情が織りなす美しいキャンバスをスキーヤーが滑走することで、生き生きとした芸術作品として昇華する。

 

当時の美しい立山に魅了され、その後、何度も訪れることになった。

 Photo/ Masakazu Watanabe

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